チベットの歴史とチベット問題  

  チベットは、ヒマラヤ山脈・崑崙(こんろん)山脈らに囲まれた、面積約230万km2のインドと中国の間にある高原地帯です。
ここに、独自の文化と言語を持つ600万人のチベット人が生活しています。
  世界一高いチョモランマ(エベレスト)を有し、首都であるラサの標高は3650m
富士山頂ほどもある高さの場所で人々は暮らしています。

  日本では明治期に、当時鎖国していたチベットに密入国した河口慧海というお坊さん(黄檗宗)がいます。
日本には伝わっていない仏教の原典を求めての旅でした。
  チベットは仏教国で、チベット語は古代インド語であるサンスクリットと同じ言語体系に属するため、 中国語や英語に翻訳された時に失われたものが残っていました。
  明治期には、チベット国旗のデザインに関わったと言われる青木文教(真宗本願寺派)など、多くの人がチベットを目指しています。
タシデレ チベット語で「ありがとう」を意味する「タシデレ」

  7世紀、当時のチベットは「吐藩(とはん)」と呼ばれていました。
ソンツェン・ガンポ王は、ネパールの王女ブリクティ(ティツィン)を后として迎え、第二妃として唐より文成公主を迎えます。
両妃とも熱心な仏教徒で、王も仏教に帰依し、インドに留学生を派遣しました。
文成公主が嫁いで後しばらくして、西遊記でおなじみの三蔵法師玄奘が唐に仏教典を持ち帰ります。こうして仏教文化が花開いて行きます。

  1578年、チベットに侵攻したモンゴル王アルタン・ハーンは仏教に帰依し、後にダライ・ラマ三世と呼ばれるソナム・ギャムツォ師に「ダライ・ラマ」の称号を送ります。
モンゴルの王が仏教に帰依した事で、モンゴル全土に仏教が広まります。
「ダライ」とはモンゴル語で「海」を意味する言葉。「ラマ」はチベット語で「師」を表します。

  1949年、 現在の中国(中華人民共和国)が建国されます。
1951年に「チベットの平和的解放のための措置に関する17ヶ条協定」を締結し、ここにチベットは中国の領土の一部となります。

  中国政府は、3月28日を「チベット農奴解放の日」と定めました。
2008年4月19日の人民日報には、以下のような文章を掲載しています。
「昔のチベットではダライ・ラマが領主であり、邪悪勢力の代表であった。当時、ダライ・ラマの生誕記念日を迎えるため、農奴は生きたまま皮を剥がされ、内臓を抉り取られ、首を切られたりした。これは人間のやることではない。ダライ・ラマは『人権』を論じる資格がまったくないのだ。」
  中国政府はチベットの人たちに対する「愛国教育」を強化する方針を打ち出し、現在のチベットでは、中国に対する「愛国心テスト」が実施されています。

  1959年、ダライ・ラマ法王はインドのダラムサラに亡命しました。

  1965年、国際連合の総会にて、チベット問題に関する決議(2079号)が採択されます。
「総会は、国連連合憲章に規定され、世界人権宣言に宣命された人権と基本的自由に関する諸原則を銘記し、チベット問題に関する1959年10月21日の総会決議1353及び1961年12月20日の総会決議1723を再確認し、チベット難民の隣接諸国への大規模流出によって証明されているように、チベット人民の基本的な権利と自由の継続的侵害及びチベット人民独自の文化的及び宗教的生活の継続的抑圧に重大な関心をよせ、
1. チベット人民の基本的権利及び自由を継続的に侵害していることを非難し、
2. 国際連合憲章及び世界人権宣言の諸原則の尊重が法の支配に基づく世界秩序の進展に不可欠であるとの確信を再確認し、
3. チベットにおける人権と基本的自由の侵害ならびにチベット人民の独自の文化的及び宗教的生活の抑圧は、国際の緊張を増加し、かつ人民の関係を悪化させるとの信念を宣言し、
4. チベット人民が常に享受している人権と基本的自由を剥奪するあらゆる行為を停止するようにとの要請を厳粛に行い、
5. 全ての国に対し、本会議の目的を達成するために、最善の努力を払うよう訴える」


  1989年、世界平和やチベット文化の普及に対する貢献が評価され、ダライ・ラマ法王にノーベル平和賞が贈られました。
チベット本土からの亡命は現在でも続いており、チベット人難民の数は10万人以上にのぼります。
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